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星になりたかった。

人生は縷々としている

 日ごろから生きることとかをツラツラと考えている性分な僕が、最近興味をひかれた文献を読んだ。

 仏教の中における「補特伽羅(ふとがら)」という考え方である。

 人間が「意識」として感じている「主体」と、脳神経の中の「情報」は区別できるものであるということ。これは「人間」という生き物が「心身」「意識」「感覚」「肉体」が組み合わさって初めて構築されているというもので、死を迎えるとそれらはすべてバラバラに分解されるということ。

 このことを、ほかの方が例えた話を引用すると、一軒の家も「柱」「壁」「屋根」などのパーツから作られているが、バラバラな状態だとそれは「家」と呼称するものではないということで、組み合わされて初めて「家」であるということ。

 よって、生命の死後の意識は更地で、そこにもいつか新しい家は建つ。

 補特伽羅はこの「更地」のことを示す。意識という次元での「絶対座標」という言い方もある。

 しかし一人の人間が一つの補特伽羅を持っているとは限らない。死後、そこに宿っていた補特伽羅が別の生き物に拡散して転生することもある。

 ゆえに、今自分自身が生命を感じてる「主体」の意識は前世や来世のものと共有されている。

 ではこの「補特伽羅」という考え方をどのように自分の中で消化し、活用すればいいのかというと、「すべての生命は死後あらゆる生命に転生する」という思想を、さながらダイイングメッセージのように来世に送るのだ。

 逆に、この釈迦が教える「補特伽羅」の思想そのものを、人間として転生した現世の自分に対する前世の自分から送られたメッセージだと考えてもいいのだろう。

 これまでに無数の死を経験し、無数の生を育んできた。

 記憶の持ち越しは不可能だから、人生を悔いのない、苦痛のない状態で幕を終えるのが人生の目的である。

 来世の自分が、補特伽羅が苦痛にならないよう、誠心誠意の優しさを込めて。

 来世への予習をすると考えてもいい。

 それの繰り返しで、よりよい自分、よりよい補特伽羅に完成させ続けるために、自分の中に「自分の意志」という絶対神を作る。

 以上が仏教における「補特伽羅」の考え方だった。

 久々に興味の惹かれた内容だったので、紹介してみた。

 僕は理不尽を嫌う。だから無意味に僕は人生という舞台に立たされたのかと考えると、耐えられない憤怒が襲う。だから、無意味ではなく、必要なものとして僕は「人間」という補特伽羅となって立っているのだと考えたい。

 では僕が立っている「舞台」、いわば世界はどう輪郭をなしているのだろう。

 インドの詩人タゴールと、アインシュタインが言っていた。

「人間が見えるから月が存在している」

「人間がいなくても月は存在する」

 世界という枠組みを、人間という意識の中だけで形作られたものとみるべきか、世界という枠組みの中に人間がいるものと考えるのか、というもの。

 人間が「月」と意識しているものは「月」だけれど、人間が「月」を「月」と意識しなくなればそれは「月」ではなくなる。

 物理法則的には「人間」がいなくても「月」は存在するけれど、主観的な人間の価値観からみれば「人間」が確認できないものは永遠に存在しない。

 なぜなら人間がいなければ「月」は「月」ではなく、ただの宇宙に浮かぶ石だからだ。つまりこの「世界」というものを「世界」として感じることができているのは「人間」の中にある意識だけだから、世界と人間の意識はイコールなのかもしれない。

 辛いとき、悲しい、苦しいとき。僕はそれを思い出して、苦痛に思っているものも、「苦痛」だと意識しているから存在しているのだ、と。だから、僕が意識しなければその「苦痛」は存在しないものになるから、少しだけ楽になるのだ。

 補特伽羅のとこでは生きる目的はこうであると紹介したけれど、その実僕は興味をひかれただけで、それで納得したわけではないのだ。

 フランスの哲学者、ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」にも似ているのかもしれない。言いたいのは脳の中の概念、いわば意識世界と、意識世界が認識している現実世界はイコールではなく、脳が「ある」と感じているものはあくまで頭の中の概念で、その概念がそのまま現実に存在する概念とは限らない。これも、「世界」がいろいろな人間の中の概念が重なって構成されているということを、根っこに感じる。

 ようは、人間が「正しい」と思うからそれが正しい「真実」なものであるだけで、現実世界の「真理」が「真実」そのものではないということ。

 いろいろなことを考えて、模索して、生きる理由、意味を考えても結局目的論という発想が、人間の思考形式、論理形式の中のものだから、所詮人間という枠の中の考えでしかないから、答えなんてものは存在しない。まぁこれも、「しない」と思っているからしないだけで本当は「ある」のかもしれないけれどそう、そんなことまで考えだすと「キリ」がないのだ。堂々巡りの人間の意識という制限された場所で、どう生命を全うするか。「生きる」という事象をどう終わらせるかはもう、それこそ「自分次第」という言葉で完結してしまうのだ。

 生きようとすること。

 死なないようにすること。

 死ぬために生きること。

 僕は3つ目を選び続ける。

 やりたいことではなく、やらなければならないことを探したい。運が良ければ、やらなければならないことが、自分のやりたいことなのかもしれないから。

 死ぬ「年月日」を決めた。

 あとはそこまでの過程をどう持っていくか。

 そういう風に考えを変えてから、人生も悪くないと思った。

 未来を歩くことは難しい。未来へ転ぶことはできる。カフカはそういった。

 僕は転ぶことすら怖いから、シネマグラフのようにゆっくりゆっくりと、止まっているように歩く。

 そろそろ蕎麦が茹で上がる頃だ。

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