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星になりたかった。

VHS「サテライト」

 東京は梅雨入りをするようになって、初夏ほどの温い空気が流れるようになった今日この頃。空はからっと晴れていて、広大な青が眩しく映る。

 そんな明るい日常にひかれて、縮こまっていた感情もだんだんと開放的になっている気配を実感する。

 最近は、一丁前に昔懐かしのものを収集することが楽しみになっている。歴史を感じる割れたジュークボックス、錆びてインクも付かないタイプライター、なんの映像が入ってるかもわからない、汚れたテープが入ったVHS、寂寥のにじむブリキのおもちゃ、歪んだオルゴールに何も映さなくなった映写機、ラジオボックス。

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 新たな試みとして、UXデザインの道を耕してみることにした。将来そこを歩くかはわからないけれど、可能性のひとつとして作ってみたい。

 ITパスポートやMOSなど、取りたい資格をとっても、ITの何かしらになるという最終目標を決めていても、いまだ漠然としている。わかったことは、「なれる」という状況に材料がそろってしまうと、僕の心は冷めてしまうということくらい。

 根っからの飽き性がゆえんしているから、僕は一生そんな性分に付き合っていかなくてはならないと思うと、少し不安になるけれど、終身雇用の時代ではなくなったのがせめてもの救いなのかな。

 自分が好きだと思っているものも、自分が比較的できるものだから「好き」なのか純粋に好きなものなのかも判断がつかない始末。小学生の頃は漫画家、中学生のころは小説家、高校生の頃はゲームデザイナーと将来の夢は転換されていくように、僕の「好き」もやがては更新されるのだろう。そして更新されても後戻り、道草ができないところまで歩いて行ってしまうのが恐怖だ。しかしいつまでものらりくらりと渡り歩いているわけにもいかない。

 だが自分の知らない、僕の好きという思いから遠く離れたところに本当に心から浸れるものがあるかもしれないという謎の自制心も働く。

 5月を抜け、陰鬱な瘴気が消失した明るい6月、決断したいという思いを決断してボストンバックを持つ。

 1年半悩み、むしばんでいた腫瘍のような倦みの花をようやっと切ることができたから、今はとても明瞭に出来事を感じ取ることができてうれしい。生きるだけでストレスなる光合成をしてしまうから、十分また思い悩まないよう注意しなきゃいけないけど。

 そういう意味でも、自分が嫌いとか、他人に求められたいとか、それは考えるという「事案」に今はなくなっていて、「僕は自分のことが嫌い」で「他人に求められたい」というのが僕という人格のベースを構成しているものだとなんとなく納得できるようになった。自己嫌悪、承認欲求ありきの僕だと。

 多岐な仕事をやっていて本当の自分は何なんだろうと思慮することもあったけれど、本当の自分なんてものは周りが勝手に決めてくれるものだと委ねることにした。

 死ぬ準備はできた。

 生きる支度もできた。

 あとは、どちらを選べる理由を探すだけだ。

 

 なんて、くさいことを。

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