でんちゅう随想録

夜のような虚無が好き。

春ほどく夜鷹

 白い太陽が花を咲かせ、桜は風に散っていく。その様子は春の印象を、桜の花びらとともに散らしていくようで、みえてくるのは夏の背中。暑いのが嫌いな僕としては、否応でも不快な気持ちが1日1日とめくられるごとに膨らんでいって、冬の候よりも肩が重い。

 気付けば頭の隅には僕を批判する意識が座っていて、仮にもこの批判を称するなら「世間体」とします。例えば、自転車に乗っていて信号が赤になる。通行人も、車の通りも全くない深夜の信号待ち、ここで僕一人が信号無視をしても誰も見ていないし、迷惑が掛からない。そんな状況でも、僕は信号無視を実行できずにいる。

 ここで信号無視をしたら、後々自分の身に降りかかってくるのではないか、ウマシカな話だけれど、やはりどこかの誰かが見ているのではないか、という想像をしてしまう。

 軽いポイ捨てぐらいなら、と思ってもやっぱり同じようなことを考えてしまって、できない。悪いことをしない、だけだったら聞こえはいいけれど、この僕を批判し続ける自分の中の世間体が原因で、仕事や私生活でも、判断に踏ん切りができなかったり、効率の悪いことをしてしまい、優柔不断な人間性につながる。

 そんな自分に自己嫌悪、とは違う疲弊による「嫌気」が定期的に訪れる。一緒にするのは失礼だけど、レディースデーのように嫌気がファランクスを組んでやる気とかを潰してくる。嫌気のほかにも、今まで述べてきたように燃え尽きてしまったり、考えすぎてしまったりなどがあるから、最近はひたすらに大の字で。自己嫌悪する体力すらも残っていなかった。

 休日はとにかく落ち着かなくて、何もすることがないという状態だと、「何もすることがない」というものの中でないをすればいいのかわからなくなって、結局休日にも仕事を入れて、「することがある」という状況を常に続けて、自分を落ち着かせる。

 YouTubeではスポーツ選手の勝利試合とかをみて、涙を流すようになった。頑張っている人、命を懸けている人、夢に向かって、目標に向かってペダルをこいでいる人たちのエピソードを見たり聞いたりすると、共感こそしないのに、何だか胸裏が動く気配を覚える。

 車輪が全体的に歪んでしまっていて、漕ぐたびに自己主張するママチャリ、けれど愛着のあったママチャリも、スーパーの帰りに駐輪所に行くとその姿はなく、自分の不注意を呪ったり。家にいると、身に覚えのない取り立てみたいな人間がチャイムを鳴らしたり、粘着質に延々とポストに聖書をいれるキリスト教勧誘の婆さんにうんざりしたり。

 Twitterで知り合った人、気が合うと思って友人になったもののその魂胆は、僕をホストとして勧誘するためで。出会い系で女性と遊んでも、最終的にはホテルに行こうとする様子をみて心が冷めていって。チャットをして知りもしない遠い人と会話をしても、満たされない、つまらないという感想しか喉から出てこない。

 自己嫌悪をこじらせてしまった所為か、人として当たり前の生活をしていると、突如強烈な吐き気が襲うようになった。ご飯を食べていると。眠りにつこうとすると。それこそ僕の中の世間体が、「おまえはその行為をするに値する人間か」と叫ぶのだ。

 ファスティングをして、体を鍛えて、メイクをして。嫌いな自分からどれだけ遠ざかろうとしても、僕の中の世間体という倫理は足枷となって離れてくれないのだった。

 こんなことを、日々の隙間で刺繍をするように細々と考えていても、どうでもいいと自棄になる瞬間も存在していて。常に変化する自分の天邪鬼が、矛盾は四季のように次々移り変わっていく。

 生きる理由も理屈ももっていないけれど。

 手首を切って少しだけ死に近づこうとしても。

 自分の虚に手を入れて空間をひたすら握ろうとしているだけの、むなしさが身をよせる。

 今はこんなことを考えているのも、果たして本当に自分が真剣に考えているのか、それとも今の自分のままでいなきゃ、僕という人間の設定についていこうとしているだけなのか、わからなくなってしまって。

 夕凪のなか、日暮れだけが通り過ぎていく。

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