でんちゅう随想録

夜のような虚無が好き。

拝啓 心、憤懣の敬具

 よく夢と希望に満ち溢れて、将来がきらきらと光っているものに見えている連中は、自分との闘い、努力すれば人生は楽しみなものに変わるとのたまわる。

 そしてその発言を、僕のような凡人が否定するとそれは、ただのひがみと切り捨てられる。努力が報われない人は、夢がかなわない人は成功した人が積み上げた努力を想像できないから、ねたむのだと。

 しかし努力であろうと、なんであろうと。いわゆる「損をする人」というものはあるはず。便利な言葉、「みんな違ってみんないい」というものがある。そう、ひとくくりにしてはいけない。「成功者」というものをひとくくりにしてはいけないように。「努力が報われない人」というのも、ひとくくりにしてはいけない。怠惰と逆上による努力への離反者は確かにいるけれど、周囲を取り巻く環境、運命の理不尽に蹂躙されるひともいる。それを怠惰の一言で吐き捨ててしまうのは、あまりにもあまりにだと思う。

 しかしこういったことを自分から言うのもはばかれる。自ら同情してくれ、と叫んでいるように見えるからだ。そして自分のこの努力が、自分で思っているほど客観的にみれば努力とは言えないかもしれないという可能性も十二人分に認識しているから、結局のところ肺腑を、物事を自動で正当化しようとする己の精神視が霧氷のように埋めていく。

 人間という生き物に、「こころ」というものがなければいいのにと、幾重に思念しただろう。正確に言うと、「こころ」を表現する言葉が存在しなければよいのにと。

 例えば人とペットの間には、成立する言語がないから、本能的なニュアンスで関係性を確立している。だから、はっきりとした相手の感情がわからないから、一定の距離を保つためそこにストレスはあまり生じていないように見える。

 しかしこの間を挟むのが人同士となると難しい。

 喜怒哀楽を表現する言葉がたくさんありすぎるし、さらに「心」というものの装置が複雑怪奇すぎて、自分すらどう感じているのか把握できていない時だってある。ゆえに自分の感情に振り回されてしまうこともある。理性というものもあるけれどこれは、心が持つ本能の感情を抑制するための、檻のような存在だから、理性がこころといえるものではない。こころのなかではいつも、感情が理性に首輪をつけて、引きずっている。

 しかし理性も感情に従順なわけではなから、首輪の鎖はいつも、抵抗の力に揺れている。この揺れが葛藤となって、その人の人間性を輪郭している。

 人間という生き物の大きな特徴は、生物としての「言葉」、「文字」を生産している部分にあると思う。感情の喜怒哀楽なみに明瞭なものは、言葉がなくても伝わるけれど、それをもっと切り開いてみると、それは非常に細かく切り分けられた、深大な宇宙にも似たもので、それはその術を会得している僕たち人間ですら把握できていない。

 この心はこう、あの心はこう、と断定できることもあれば、できなくて対処できず、振り回されることも多々あって。だから毎回、日常を生きるたびに本能のままにゆだねることができたら、どれだけ楽になれるのだろうという空想をする。

 例えば人の目を気にしなくなったら、今よりも確実に自堕落な生活、そして自分と他者との劣等について何も所思しないだろう。ただ人の目を気にせずに、自分だけを考えた生活を営んでしまえば、周囲からどのように思われるかある程度の予想がついてしまうくらいには、教養を蓄積している僕から見ればその行為はただただ、心に無秩序なだけだと判断するから、周囲に対して気を楽にすることはない。

 人と関係をもち、談話している最中でも、シミュレーションゲームのように、僕の目の前には常に喋る内容の選択肢、向こうの内容に対する返答の選択肢、さらにはこの選択肢を選んだことによって発展するであろう会話の枝葉の葉脈まで、思慮している。それゆえに、人と喋るだけで、膨大な体力を浪費するし、それが嫌でだんだんとなるべく人間と喋らないで済むよう事前に対ストレスの防空壕ならぬ防心壕を、掘るようになっていった。

 僕はフリーターで、4つのバイトを掛け持ちしながら、プチウェブデザイナーとして活動している。先月、人生において大きな裏切りを味わったばかり。

 微衷を忘れていうと、僕はほかの人よりも優秀であるように心がけていて、現にそこらの「新人」よりはいつも、一つ上の能力でいる。それは「なるべく同じことを2度以上教わらないように仕事をする」という決め事が起因しているのだが、言ってしまえばよく仕事を覚えるのが早いといわれ、自らプレッシャーに弱いのに、向こうの期待度、ハードルを上げていく。

 当然、そんな優秀な新人に不快感を味わう人はいて、2つのバイト先からいじめ、というよりかはいやがらせを受けている。ただ上記のように、普段から予測するような頭でいる分、この展開も考えてはいたので、そのいやがらせを回避するよう打開策は常に用意していた。子供のいやがらせとは違って、大人のいやがらせは変に賢い分、質が悪い。出勤ができないよう、タイムカードをなくされたり、膨大な量の仕事を同時にやらせるよう、職場の雰囲気を誘導するように動かれたり。それらをあおるようにして、僕はいやがらせも回避していったから、「いやがらせ」そのものに対してはそこまで強くなにかは思っていない。

 ただ、この年齢にもなっていやがらせを受けているという事実が、なかなか虚しく胸裏に響くから、辛くて苦しい。

 なぜ、普通に仕事をこなす人が、こなさない人に刺され、血を流して上司の足を滑らさなきゃいけないのだろう。

 新しい事務所を作ろうと、志一緒にいた仕事の相棒みたいな人が、そこまで志に対して本気じゃなくて、途中でその志を僕に丸投げしてきた。真剣だったのは僕だけだった、という絶望ではない、「僕だけ真剣だった」という部分に巨大な羞恥を感じて、今まで志に対して取り組んでいた自分の過去が痒くなった。

 人の心を真剣に受け止めてしまうのは、「重い」のだろうか。バカ真面目なのだろうか。聞き流してしまえばいいのだろうか。

 3度目の裏切りだと思っていた、僕が守ろうと思っていたNと1日を過ごした。酒の席で、大きなすれ違いが何回も往復していたことが発覚して、勝手に憤怒していた自分がやはり恥ずかしくなった。しかし一度抱いてしまった懐疑心は枯れてはくれなくて、いまだにNと他人に対する疑心暗鬼が僕の頭をむしばんでいる。

 どうして人を信じられないのだろう。ない可能性をないと、どうして切り捨てられないのだろう。怖くて怖くて、嫌われたくなくて、疑ってしまう。

 連日働いて、時には時間外勤務をして、自分の次の人が楽になるよう、ノルマよりも多く仕事を終わらせて。上司の期待にこたえられるように、いち早く仕事を覚えて。

 けれど僕がもつ人間性を持ち合わせている人は周囲にはいない。

 みんなは定時で必ず上がって。マニュアル通り、ノルマ通りに達成された仕事が僕の目の前に置かれて。覚えた仕事をそれ以上昇華させないで、淡々と仕事をみんなはする。

 僕にはそう見えてしまっている。

 僕が見ている景色と、他人が見ている景色の違い、僕が考えていることが、ほかの人にとっては考えていないことで。

 どうしてもっと、みんなのように生きられないのだろうかと、自分が嫌になる。

 自分が嫌いで、他人が嫌いで、けれど嫌われたくなくて。天邪鬼の行動に、僕の心は混乱するように様々な回路を巡らせて、心労を蓄積させていく。

 知恵の輪にリングを付け足すようにして葛藤を続けているうちに、ぷつんと僕の心は大きい構造から外れてしまった。

 疲れた。もう疲れた。

 干渉してほしくないのに、人は干渉してくる。

 仕事をしたくないのに、仕事がやってくる。優秀ゆえに、普通の人と同じだけの仕事で終わらせると、注意される。

 掲げていた腕は降り下ろされて、地面が手の甲に吸い付いているように、腕は振り下ろされたまま上がらなくなってしまった。

 すべてのバイトを今は休み。ウェブデザイナーとしての仕事もたたんで。

 今はもう、時間が過ぎるのを眺めている。

 自棄になっている自分、いずれこの時間を後悔するときがくることを、理解していても、今は何も動けないでいる。

 カーテンの隙間から漏れる眺望の春色すら眩しい。

 僕がこういう人間だと、こういうことを抱えているということを今まで秘匿するように生きていたから。いまさらこんなことを叫んだって、周囲の人は「後付け設定」と認識して、何言ってんの?という言葉に終わる。

 過去の自分が今は刃となって深く、今は僕の胸襟を貫いている。

 どうすればいい。どうしたら解決する。

 なんで考えてしまう。断定できない思考の濁流が、いまだに僕の心を疲弊させている。

 拒食が始まって3週間、みじめでみじめで涙も出てくれなくて。

 「こころ」なんてもの、なければよかったのに。

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