縷々

星になりたかった。

葬香とイソップ

 久しく出会っていなかった友人たちと出会ってきた。友人というよりはクラスメイト、という関係性なのだけれど、便宜上ここでは友人とする。

 当時クラスで一番の頭脳を誇っていた友人は中退して、土木をやっていた。当時そこそこ人気のあった女の子は在学中に親が離婚し、学費を自ら水をやりながら工面していた。知らない間にそんな過酷な状況下に身をやっている友人たちもいれば、変わらず生きている友人の顔ぶれもあった。

 個人的に一番驚いたのは、クラス一番のわんぱくだった子が今まじめに勉強をしているという点だった。

 皆、卒業してから会うようなことはなかったから、クラスの絆は今もつながっている、みたいな甘ったるい雰囲気ではなくて、純粋に合わなかった期間での変化を楽しんでいるという空間だったので、当時クラスになじめていなかった自分も笑うことができていた。

 そんな各々の会話の中で、自分に一つの質問が隣に座る友人から投石された。「なんで生きてるの?」という、要約するとそんな感じのセリフ。悪口ではなくて、自分は客観的にみるとどうも何を理由に生きているのか、楽しそうに生きている印象を与えていなかったようで、そんな自分が今この場で笑顔でしゃべっているのが不思議に映ったそうだ。

 友人たちとの集まりもお開きになったところで、帰路を歩く時も、帰宅してからも、頭の中で先の言葉が残響していた。

 どうせいつか死ぬのだから、何をやっても無意味。

 こういう思想がある。けれど決まって、この思想を抱える人は自ら死を選ぶことはないし、安定した生活を手に入れている。それは心のどこかで、死(苦痛)を無意味ととらえていないから。さらに、無意味と考えているのならば、この思想そのものを主張し周りに伝えることはしない。だって、「無意味」なのだから。

 けれどこの思想の難しいところは「客観的な無意味」のほかにも「主観的な無意味」というものがあるということで、また机上の空論になるけれど、必ずしも死によって意味がすべて無に帰すということは決定できない。死後は誰も知らないし、死者と喋った人もいないのだから、死の先がどう具現化しているのかは生者はわからないし、人間は人間の認識していることしか認識できない。

 死んだら現世で積み上げたものは意味を失う。これに意味無意味という概念を絶対視しているひとの視野狭窄で、生を安易に捉えている人間と批評する人もいれば、それこそが人類という生き物としての知性ととらえる人もいる。輪廻転生の応用から、宇宙は「仮想現実」生は「データ」死は新たなるデータの「ロード」で、宇宙がよりよいものを創造するための必要な「死」は、未来の宇宙に貢献するから意味のある現象と壮大なことを発言する人もいる。

 ニヒリズムはずっと口論され続けている内容で、誰もが一度は頭の中で考えたはず。

 自分もずっと一日に一回ぐらいは考える。どうせ死ぬ、なのになぜ生きているのか。死に対する恐怖心はないし、目の前に現れたら受け入れてしまえると思う。だから、生きる死ぬとか、死んだという事実による意味無意味の価値の重要さという概念ではなくて、「もったいない気がする」というあやふやな理由で生きている。

 子孫を残すとか、文明を後世に残すとか使命を理由に生きている人もいる。

 大事な人のため、とか夢をかなえるために生きている人もいるかもしれない。

 少なくとも、自分の頭の中に人生を生きることに暗いことを考えることはあっても、それが寄生することはなくなった。

 だから、友人の質問には間を開けることなく、答えることができた。

「得じゃん」

 死ぬまでの過程を楽しんで生きたほうが。

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