縷々

星になりたかった。

夜景

 あるいは夜を擦ったような、暗闇の皮膜の向こう側にある、大嫌いな朝の光が見え隠れした夜明け前の一刻、それが夜の終わりと雀が鳴く。

 よく耳をすませば聞こえてくる、川の伴奏が、風のフルートが、我ら人間を見下ろす星座たちの、しんしんとした降雪のようにたてる光の音たちが。

 歩けば自分の影が路に呑まれ、まるで自分も夜の一人になったような、、、ポツンと置かれた街灯で刹那に映る、自分の歴とした影の輪郭。それら全てがサングラス越しにみる夕焼けの如く、常にあるノスタルジーの存在が、夜というものの魅力だと思う。

 太陽は強すぎる光のまま世界を見せてしまう。紫陽花に毒があるように、雪は溶けやすいように、そして夜明けがあるように。

 綺麗なものは醜悪を穿いてるからこそより一層美しい。だから陽光は世界の美しさだけではなく、醜さ歪さまでもを照らしてしまう。

 真実というのは必ず美しいものではない。

 真実を嘘で塗ればこそ、見られる真実、直視できる真理というものに完成されるのだ。

 夜を好きだからこそ、夜に調べられ、夜で学び得たものがある。

 己の秘密を剥いで、真実を世間に広げて、さらにその真実を好きでいてもらおうと、愛してもらおうというのは物凄くおこがましく、図々しい行為なのだ。

 それこそ常人には直視できるものであるはずがないのだ。

 よく見えない。

 そう思わせるくらいの、人間性がちょうど良い、ひいては普通というもので、好きな夜なのだ。

 人間も世界も、夜のようによく見えないという世界観が魅力の一つで美しさの全て。

 窓外の白い月光が私の肩に当たる。

 己というものを一つの人間として考えた時、自分はその己というものを批評する評論家だとする。そう仮定して、私は果たして己というものを崇高なるもの、人と併用な生活を送るに値するものだと到底思えるものではない。

 惰性で食をとることも、欲のまま眠りにつくことも、好きに人と関わりを持つことも、何か対価を払って対等になれる、それぐらいでちょうどいいくらいの己だと、私は綴るだろう。

 そしてこんな気味の悪い花畑な思想も、夜の帳は手ぶらで抱擁してくれるのだ。否、そんな自分の思想すらも、「よくみえなく」させるのだ。

 暗闇にもいつか目は慣れてしまうから、やがては疲弊を辿り、否応にまた己と向き合う時がきてしまうけれど、そんな苦しみも痛みも、どこか曖昧模糊とした、蒙昧的な意識が見せる幻想、八日目の蝉のように感じるだけ、まだマシというもの。

 春に植えた種を、何年何十年と待ちながら、いつか成長しようとする枝葉が己の身体を貫いてくれるだろうと希望を抱かせながら、死は育つ。

 あぁ今日も私は、苦痛から逃れようと夜の中うずくまり、言葉で身を隠す。

 夜の観覧車、頂上で見たみやこのけしき。

 地上に広がる星座のような光たちの景色、とても綺麗な景色だった。

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掠領

曖昧な未来さえ愛することができない僕は

今を見つめることもできない

僕を知ったような口で

あなたたちは語りかけてくる

気が遠くなる綺麗事も

指紋だらけの戯言みたいに

頭の中で響くだけなんだ

だからあなたたちを理解しようとすることも

肯定しようとすることも

なんだか愚かなことに思えて

そっとナイフとフォークをテーブルに置いた

諦めと呼んでくれてもいい

怠惰と嗤われてもいい

もう僕の耳は眠っている

カーテンを閉めた、陽光の届かない僕の部屋

罪悪感とか、嫌悪感とかがそっと撫でられて

嘘みたいな静寂の世界が唯一なんだ

けれど、扉は叩かれる

その度に忘れようとしていた現実が

夢から覚めた僕の意識が潰しにやってくる

頭を下げても、涙を流しても

世界は許さない

だから僕は昨日よりも良い自分になろうと

今日よりも明日は頑張ってみようと思うけど

やっぱり何もできずにうつむいて

膝を抱えている

遠い記憶の自分はあたりまえのように笑って

当然のように幸せを感じていた

気付けば弾力の無い僕になっていて

やがておかしくなっているのは僕じゃないのか

人間じゃないのかもしれない

そんな他愛ない恐怖が

赤い痛みを欲して尾を振っている

これまでもこれからも

自分を騙していく

それは割れた鏡に映る僕の姿を遮るようで

形の割れた寂寥

過ちは僕を縛り

僕はその縄の感触を決して忘れてはいけない

戒め

日々を生きて

のうのうと生きて

良いことや悪いこと

僕の心に干渉した分だけ

手首に刃を引いて

熱く、痒くて痛いそんな感覚が

僕を溺れさせないでいる

普通の人でいたいと思うように

そんな人であってはいけないと思う

イマジナリーフレンドが囁いて

普通の人みたいに

あなたたちみたいになりたいなら

対価を払わなくてはならない

光になれない僕は

あぁまた退廃的な闇に引かれて

塗り替えられた真夜中へ落下していく

旅に出たい

誰も知らない

誰も僕を知らない街へ

そこは誰も誰を見てなくて

僕のこともみてなくて

そしてあなたたちもいない

そこは幸せな場所で、きっとうるさくない

ここよりも静かな場所だ

きっとそう

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隻雨

 子供が熱心にゲーム画面に釘付いて、コントローラを強く握りしめていた感覚。誰の声も聞こえない、時折通る車の音だけの深夜、放送が終わったチャンネルの画面をただぼうっと見ていた時間。自分しかいない交差点で、意味もなく信号が青になるのを待つその瞬間。

 心の熱意と、日常の普遍の隙間に、無感情という理性と人格を包む精神の外殻、あるいは人間性の触覚のようなものは、日々の生活では気付かないし、気づく必要のないものがある。

 僕らは無意識に身体を洗って、ご飯を食べて、歯を磨いて、寝ている。痒いところがあれば何も思慮せず無意識のまま搔いて、目が乾きそうになれば当たり前に瞬きを、さながら条件反射のようにして生活を綴っている。

 僕が言いたいのは、人間というものが動いているのは、単に中に収納されている心のみじゃないのかもしれないということで、心が体から離れた刹那、人として形できているだけの状態を、心以外の何かが操って、傀儡となってる僕がいるのではないかということ。

 そして、その何かと常に接続している、究極的な客観視で僕を俯瞰している。

 楽しいこと、嬉しいことを「楽しい」「嬉しい」と感じるのではなくて、「楽しいと思っているんだろう」「嬉しいと思っているんだろう」というニュアンスの違い。

 哲学ではよく言われる、身体と心は別の場所に置いてあるというものに近しい。

 自分が見ている景色、聴いている音、感じている感覚、全てが画面越し、イヤホン越しに文字起こしされた情報を読んでいるような、流れてくる音声をそのまま口にだすような、、。

 1年くらい前から、視界の端に黄色い服を着たおじさんがこちらを見て立っているという幻覚を週1くらいで見るようになった。怒られている時、人と喋っている時や考えている時、仕事をしている時など、たまに遠近法が崩れて、サイズ感がバラバラに見えたり、空間が歪んで見える、はっきり見える老眼と言えばいいのか、5センチ感覚で置かれた自分の目に移る景色がそのまま結合されて見えてるというか。

 そんな不思議な状態でいて、退廃的な生活を送っていると、段々とふわふわとした竜宮の時間を覚える。

 長い言葉でだらだらと語ったけれど、有り体にチープなことでいうと、単にぼけーっとしているだけなのかもしれない。

 僕の片側はいつも雨が降っている。

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斜景

 東京喰種の金木は、「選んだものなんどもひっくり返して、同じことの繰り返し。くだらなすぎる僕は。カッコ悪い、ダサイ、優柔不断、軟弱者•••それが僕だ」と受け入れて、最後は「世界はそこにあるだけ。たとえいつかなにもかも無駄になるとしても、僕は今日みたいにあがき続ける」と受け入れる姿を見せました。

 彼は物語の中で、幾多の紆余曲折でそう完結させることが出来ました。そしてその起結を、ただ紙の上で眺めているだけの僕は、最近答えを手に入れたはずなのに、またも僕は目を手で覆った。

 今まで輪郭のない痛みが、明確な刃を携えて切りつけてくる。だから余計に、目を覆う手の隙間から、僕の醜悪な姿がちらついて、巨大な嫌悪が襲う。遠回りな文体で、抽象的な言葉を選ぶ理由も、きっとその「明確な痛み」「明確な僕の脆弱性」を直視したくないからなんだと思う。

 ただ、少ない希望は心の底から望むものが、胸の中で鼓動していることだ。

 脈打つ理由は「無干渉」。何にも触れたくないし、誰にも干渉されたくない、ただただ放って置いて欲しい。自分の要塞で籠城したい、外に出たくない、陽の光も浴びず、社会へ繋がる扉に鍵をして、カーテンで遮られた部屋の影を眺めていたい。

 不思議と、死にたいとか、傷つけたいとか、そういう感慨は遠かった。ただ白夜の如く、巨大な怠惰が照りつけているだけで、つまりはそういう思慮することも、どうでもいいと、面倒くさいと思うようになった。

 思考することに疲れた。

 外を歩くときも、いかに迷惑じゃない歩行経路で歩くか、イヤホンをして音楽を聴いてるときも、自分の呼吸がうるさくないか、視線をどこに固定すれば人と目を合わせずに、前を向いて歩けるのか、対抗してくる人の歩行経路や、信号の切り替わりをみて動く車、遠くの笑い声や、すれ違う人々の視線、そんな思考の雨に濡れすぎて、何度も拭おうと試みても、僕が嘲笑されているかもしれないという可能性と、世間が僕を見ていると決めつけている自己、その嫌悪、またその葛藤を何度も見続ける呆れや、軽蔑の息を吐くもう一人の自分、深層的な心理の部分では、僕がかまってほしい、慰めてほしい、同情してもらいたいと欲するが故に一人でお遊戯をしているだけなのかもしれないという可能性、それが真理で、直視しないだけで単純な子供の行動であるという認める認めないの横行、気づけば過呼吸で職場に立っている。

 擦り切れそうな精神が生んだ処世術は、大げさにいうと記憶飛ばしだった。

 気づけば帰宅。気づけば仕事中。気づけば電車の中。気づけば食べていた。気づけば買っていた。自分は寝たのか寝てないのか、判別が難しいくらいに、物事物事の間を繋ぐ過程の記憶が、全く思い出せないのだ。それは泥酔しながら帰宅した翌朝のベットの上にものたものだが、強烈な酔いがない分、得体の知れない気持ち悪さが胃を襲う。

 その所為か、生活する全ての出来事が、なんだか夢見のように、胡乱と感じる。夜道の帰路、廊下の蛍光灯が点滅している高層ビルの8階を横目に見るような感覚。

 嗤い声も、喉を詰まらせる嫌悪も、背中を指す罪悪感も、最早遠い世界の出来事のように、「あぁ、苦しいな」と鈍く反応するだけで、痛覚は遮断されていた。かつて言われた言葉を、予感はしていたけれど、いよいよ僕が言う番だ。

 どうして普通の人間になれなかったんだろう。

 ふつうに、普通に生きたかった。

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oll korrect

  スパイダーマンのような勇気はない。

  ハリーのような頭脳はない。

  バットマンのような強い拳も、ハルクみたいに屈強な身体もない。

  ロッキーみたいな努力、ディカプリオが抱いたような恋情もない。

 彼らはお伽話の向こう側にいて、僕は現実の上で横たわっていた。

  でも、現実でいる僕が、お伽にいる彼らの能力を持つ必要はなくて、ただ現実をよこたわる怠惰から、立つという勤勉さを磨けばいいだけだった。

  頭の中で、子供のころ好きだった曲が蘇る。

youtu.be

  何も知らないまま笑顔でいれた記憶の骸も、その山を蹴り崩す苦い記憶も、蛍が夜空へ運ぶ星の光となって、僕を俯瞰する。

  地面を見て歩いていた僕は、やっと見上げることを覚えて、貼られた星座を瞳に写す。

  結局、僕という人間を把握することはできなくて、生きる意味も見つけることは叶わなかったけれど、僕という個を理解すること、生きる理由を、見つけることは叶った。

  今まで書いてきた日記、ブログに住んでいた僕を読んで、痛々しいとも、懐かしいとも、万感を得た。

  僕の根っこの部分を支配しているのは「寂しさ」で、それが全てのようだ。

  生きたい、という明確な気持ちがないまま生きてきた惰性の真理も、誰にも何も引っかからないまま消えるという、寂しさが生んでいた。

  満たされないという感情も、死にたいという感情も、誰も満たしてくれないという寂しさ、死という事象が満たされない穴を埋めてくれるかもしれないという可能性を、視たものだった。

  でも最初から気付いたまま、気づかないふりをして、自分の中の惰性で生きるという行為が、何か偶像的なものによって引っ張られているものだと、現実逃避をしていたのかもしれない。受け入れる器が、認める勇気が、無かった。

  これまでの人生で、寂しさを埋めてくれた出来事はあった。

  けれどその分、僕は寂しさを抱擁してくれる温かさに酷く依存してしまう生き物になった。その重圧で温かさを潰してしまうし、一度知ってしまった温かさが忘れられなくて、物凄く弱い人間になってしまったこともあった。

  だから、戒めではないけれど、これからの人生で僕の中に眠る寂しさ、強く愛情を求める子供の涙を拭いて、一生満たさないよう、埋めないことを決めた。誰も幸せにならないことを自らするような悪目立ちはしたくない。

  だから別の見方で、死というものが「必ず」僕の寂しさを拭ってくれるという「可能性」のものじゃなく、「必然性」のものに昇華させる。

  いわば「僕」が生きた証を、「僕」という個が生きていた事実の拠をつくって、残すのだ。

  幼少時代、可愛がられていたのだろう予想はできるけれど、思い出せるのは父の暴力と、同居人のヤニ、母の謝罪だけだった。

  それらが全て、この寂しさをもとめる感情の化け物を誕生させた。

  しかし過去への憎悪はあっても、過去を拒絶はしない。あの過去がなければこの獣は誕生していなかっただろうし、獣がいなければ今の僕も存在していなかったからだ。

  

  死ぬ日を決めた。

  そしてその死ぬ日は、僕が残せたと思った日だ。

  スパイダーマンの勇気、バットマンの拳、ハルクの身体、ハリーの頭脳はなくて、ロッキーやディカプリオのような経験もしてこなかったけれど、生きる力を学んだ。正確には、その生きる力を守る方法だ。

  それは全ての出来事を予測すること。

  凡人でも、既存のものをなぞることは出来る。

  僕が「思ったこと」は僕という世界が作ったものだから、僕でも触ることが出来る。

  転ぶかもしれない、ぶつけるかもしれない、程度の話だけれど、この「かも」をもっと見渡せるものにして、深く掘っていけるものにする。するとそれは、「かも」の先の結果だけではなく、結果と今の間をつなぐ、プロセスを見る力になるし、慣れれば一つの出来事を一直線じゃなく、木から伸びる枝葉のように見ることができる達観的に観れる力に育つ。

  人と喋る時も、相手の言葉に返答するいくつかの台詞を画面に用意して、その台詞ごとの発展するであろう会話の流れを輪郭程度に把握して、またそこで都度発生するであろう言葉の選択肢、またその選択肢が引き起こす会話の道を、とどんどん展開させながら喋ると、口下手で、人付き合いが苦手な僕でも用意された原稿を読むだけの行為に変化するから、大分気楽になる。

  これを「会話」の場面だけじゃなくて、仕事、生活から自分の身振り、歩き方、話し方と様々な場面、分野で使うと、呼吸がしやすくなる。

 

 

  長い長い悪夢からようやく目を覚ましたような心地。

  惰性で生きて、妥協で歩く少年はもういない。

  痛くて痒くて、誰よりも長い思春期をようやく終えて、後ろにいる地面を見つめたままの僕の頭を撫でる。

  

 

  夜空を見ると、星々がいた。

  綺麗とは思わなかったと思う。

  けれど、青年は何かを思いながら、隣にいる少年と手を繋いでいた。

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拒む

 自分が嫌い。

 食べてる姿が嫌い。

 だから綺麗に食べたい。

 食べづらいものが苦手。

 口や手が汚れるのが嫌い。

 咀嚼するときの音が苦手で、口を動かすものが嫌い。

 やがてあごの上下運動が億劫になる。

 じゃあ喉だけで食べれるものにする。

 必然とちゃんとした食べたものを食べる必要性がなくなる。

 時間が惜しいから、「食べる」より「飲む」で食事を済ませたい。

 いつからか、食事が摂取という考え方に代わる。

 摂取という「一般」とは乖離した行為に嫌悪感を覚える。

 急いてご飯を食べようとする。

 これの繰り返し。

 繰り返し。

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人生は縷々としている

 日ごろから生きることとかをツラツラと考えている性分な僕が、最近興味をひかれた文献を読んだ。

 仏教の中における「補特伽羅(ふとがら)」という考え方である。

 人間が「意識」として感じている「主体」と、脳神経の中の「情報」は区別できるものであるということ。これは「人間」という生き物が「心身」「意識」「感覚」「肉体」が組み合わさって初めて構築されているというもので、死を迎えるとそれらはすべてバラバラに分解されるということ。

 このことを、ほかの方が例えた話を引用すると、一軒の家も「柱」「壁」「屋根」などのパーツから作られているが、バラバラな状態だとそれは「家」と呼称するものではないということで、組み合わされて初めて「家」であるということ。

 よって、生命の死後の意識は更地で、そこにもいつか新しい家は建つ。

 補特伽羅はこの「更地」のことを示す。意識という次元での「絶対座標」という言い方もある。

 しかし一人の人間が一つの補特伽羅を持っているとは限らない。死後、そこに宿っていた補特伽羅が別の生き物に拡散して転生することもある。

 ゆえに、今自分自身が生命を感じてる「主体」の意識は前世や来世のものと共有されている。

 ではこの「補特伽羅」という考え方をどのように自分の中で消化し、活用すればいいのかというと、「すべての生命は死後あらゆる生命に転生する」という思想を、さながらダイイングメッセージのように来世に送るのだ。

 逆に、この釈迦が教える「補特伽羅」の思想そのものを、人間として転生した現世の自分に対する前世の自分から送られたメッセージだと考えてもいいのだろう。

 これまでに無数の死を経験し、無数の生を育んできた。

 記憶の持ち越しは不可能だから、人生を悔いのない、苦痛のない状態で幕を終えるのが人生の目的である。

 来世の自分が、補特伽羅が苦痛にならないよう、誠心誠意の優しさを込めて。

 来世への予習をすると考えてもいい。

 それの繰り返しで、よりよい自分、よりよい補特伽羅に完成させ続けるために、自分の中に「自分の意志」という絶対神を作る。

 以上が仏教における「補特伽羅」の考え方だった。

 久々に興味の惹かれた内容だったので、紹介してみた。

 僕は理不尽を嫌う。だから無意味に僕は人生という舞台に立たされたのかと考えると、耐えられない憤怒が襲う。だから、無意味ではなく、必要なものとして僕は「人間」という補特伽羅となって立っているのだと考えたい。

 では僕が立っている「舞台」、いわば世界はどう輪郭をなしているのだろう。

 インドの詩人タゴールと、アインシュタインが言っていた。

「人間が見えるから月が存在している」

「人間がいなくても月は存在する」

 世界という枠組みを、人間という意識の中だけで形作られたものとみるべきか、世界という枠組みの中に人間がいるものと考えるのか、というもの。

 人間が「月」と意識しているものは「月」だけれど、人間が「月」を「月」と意識しなくなればそれは「月」ではなくなる。

 物理法則的には「人間」がいなくても「月」は存在するけれど、主観的な人間の価値観からみれば「人間」が確認できないものは永遠に存在しない。

 なぜなら人間がいなければ「月」は「月」ではなく、ただの宇宙に浮かぶ石だからだ。つまりこの「世界」というものを「世界」として感じることができているのは「人間」の中にある意識だけだから、世界と人間の意識はイコールなのかもしれない。

 辛いとき、悲しい、苦しいとき。僕はそれを思い出して、苦痛に思っているものも、「苦痛」だと意識しているから存在しているのだ、と。だから、僕が意識しなければその「苦痛」は存在しないものになるから、少しだけ楽になるのだ。

 補特伽羅のとこでは生きる目的はこうであると紹介したけれど、その実僕は興味をひかれただけで、それで納得したわけではないのだ。

 フランスの哲学者、ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」にも似ているのかもしれない。言いたいのは脳の中の概念、いわば意識世界と、意識世界が認識している現実世界はイコールではなく、脳が「ある」と感じているものはあくまで頭の中の概念で、その概念がそのまま現実に存在する概念とは限らない。これも、「世界」がいろいろな人間の中の概念が重なって構成されているということを、根っこに感じる。

 ようは、人間が「正しい」と思うからそれが正しい「真実」なものであるだけで、現実世界の「真理」が「真実」そのものではないということ。

 いろいろなことを考えて、模索して、生きる理由、意味を考えても結局目的論という発想が、人間の思考形式、論理形式の中のものだから、所詮人間という枠の中の考えでしかないから、答えなんてものは存在しない。まぁこれも、「しない」と思っているからしないだけで本当は「ある」のかもしれないけれどそう、そんなことまで考えだすと「キリ」がないのだ。堂々巡りの人間の意識という制限された場所で、どう生命を全うするか。「生きる」という事象をどう終わらせるかはもう、それこそ「自分次第」という言葉で完結してしまうのだ。

 生きようとすること。

 死なないようにすること。

 死ぬために生きること。

 僕は3つ目を選び続ける。

 やりたいことではなく、やらなければならないことを探したい。運が良ければ、やらなければならないことが、自分のやりたいことなのかもしれないから。

 死ぬ「年月日」を決めた。

 あとはそこまでの過程をどう持っていくか。

 そういう風に考えを変えてから、人生も悪くないと思った。

 未来を歩くことは難しい。未来へ転ぶことはできる。カフカはそういった。

 僕は転ぶことすら怖いから、シネマグラフのようにゆっくりゆっくりと、止まっているように歩く。

 そろそろ蕎麦が茹で上がる頃だ。

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