でんちゅー

お面の向こうは社会

太宰じゃない、僕でしかない

 その人には交際している人がいた。

 そして僕は、その人にとって信用されている人間だった。

 つまりその人には、恋をする人と、人として好きな人がいるわけだ。

 心というものを定義づけるとき、心の中のグラデーションを、境界線として区切ろうと考えたとき、それは非常な困難を招く。

「恋する人」

「何でも話せる人」

 僕はこの立場のことを何も考えずに、その子と親交を続けていたけれど、ある時そのこの恋人から立場をわきまえるよう、言われた。ここで初めて僕は気づいたのだ。

 考えてみれば、交際相手が他の同性と仲睦まじくしていたらあまり心よく思わないのは当然の李であった。

 だから身を引こう、と言って簡単に身を引けたらいいのだけれど、物事というのはそこまで簡単にできているものではなかった。

 「その人」は人よりも抱えるものが多い人だった。それゆえ、その抱えを吐露できる場所は少なかった。僕は「その人」にとってそんな、数少ない場所の一つであったから、たやすくそれを破壊するのは中々に、中々だ。

 そして、「その子」にとって恋人は、吐露できる場所ではなかった。それはたぶん、好きな人に迷惑をかけたくないとか、格好の悪いところを見せたくないとか、いろいろな心理が働いているからなんだと思う。

 どうすれば、僕は「その子」にとって毒にならず、薬になるのだろうか。

 太宰は、「人は人に影響を与えることもできず、また人から影響を受けることもない」と言っていた。

 そう物事を俯瞰して、達観したように喋ることができたらどんなに良かっただろうか。不器用な僕は、不規則な縫い針の動きに指を痛めながら、「その子」を考える。

夏の夜の骸

 洗濯ものを取り込んでたたみ、横に積み重ねる手作業のように、僕は今まで自分が嫌いだと折々に、器に炒れてきた。

 けれど、数々の日常と、色々の時間をなぞっていくうちに、僕は僕という「個人」を好き不好きという次元で考えないでいた。

 今日この夜、一人で部屋の中、天井を見つめる。

 今ある僕という「人格」をしっかりと認識するようになったのは、把握するようになったのはいつからだっただろうか。

 社会という大きな枠組みの中で渡っていく処世術をいつの間にかのらりくらりと、または淡々といなしていくようになったのはいつからだったろう。

 あの時、青春の涼しい風に背中を叩かれながら、部活仲間と肩組みあって帰路についていた思い出が、本当に自分の過ごした思い出なのかと疑わしくなるほど、遠くに感じる。

 成長期で自己の主観を形成し、思春期で自己の客観を形成する。

 己という人間の主観と客観を形成した後は、それを支える器を死ぬまで作り続ける。社会と言い換えることもできる。

 そんな僕の社会が気付けば過去のものとは随分変質していたことに今は驚いている。

 注意するのは、これを成長とも、衰退とも思わないことで、変化として受け入れること。

 脳漿の水面に波紋を広げながら、気付かせようと意識の石が放られる。

 人を知って、道徳を学んだ。

 心を触れて、倫理を学んだ。

 労を感じて、礼儀を学んだ。

 よく上を向くようになった。

 夜に広がる星空を。

 前後も変わらない普遍の表情でいる天井を。

 床に就く前、今日過ごした自分を反省するようになった。

 人と会話するときの、目の前の選択肢が増えるようになった。

 頭の中で文章をつくって、推敲して、口に出す一連の作業がすごく早くなった。

 周囲に敏感になった。

 自分にも敏感になった。

 敏感が、過剰に反応させるようになった。

 まどろみのなかで、この興奮を記したい。

 崩れた言葉で、ここまで来たという実感と、背後の骸の数に気づいた。

 ナイフを握る手も、今日だけは僕のお腹を撫でてくれた。

 人には期待しない、人には寄り添わない、人には甘えない、人には頼らない、人は信用しない。

 人は僕という世界観の外に住む、化物でしかない。それは家族であれ、友人であれ、恋人であれ、尊敬するような人物でさえ、だ。

 僕を肯定し、理解し、手を叩き、時にはその手で刺してくれるのはやはり、僕だけしかいないし、僕しかわからない。

 だから、僕という個人を、好きや嫌いで、語らなくなった。

 客観視する僕が僕に言う汚い言葉も、今はもう聞こえない。

 表裏一体、というのは大げさだけれど、今この瞬間、この時間。

 酒の酔いのせいかもしれないけれど、確かに僕は、

 僕という存在を認めることができた気がする。

 

 

 

拒む

 自分が嫌い。

 食べてる姿が嫌い。

 だから綺麗に食べたい。

 食べづらいものが苦手。

 口や手が汚れるのが嫌い。

 咀嚼するときの音が苦手で、口を動かすものが嫌い。

 やがてあごの上下運動が億劫になる。

 じゃあ喉だけで食べれるものにする。

 必然とちゃんとした食べたものを食べる必要性がなくなる。

 時間が惜しいから、「食べる」より「飲む」で食事を済ませたい。

 いつからか、食事が摂取という考え方に代わる。

 摂取という「一般」とは乖離した行為に嫌悪感を覚える。

 急いてご飯を食べようとする。

 これの繰り返し。

 繰り返し。

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ナナプラスサン

 10にそろえたい。

 そろえる数式は何をカンガエル。

 1+9

 1人に対して大勢が襲い掛かろうとしている背景が見えて嫌だ。

 6+4

 なんかコンセントに挿す、というよりはプラスねじにマイナスドライバーを差し込むみたいな、微妙な合致具合が気に食わない。

 5+5

 ブロックの上にブロックを置くみたいな安直な姿がいけすかない。

 8+2

 メロンパンにチョコチップを加えたみたいなチョイタシ感、これでいいんだろ?みたいな数字の中の生意気な心根がうざったい。

 僕的には7+3がちょうどいい。

 それこそ、コンセントに挿すぐらいの気持ちいい合致感がある。

 人を殺したらそいつは死刑ナミの、シンプルさが好き。

 だから物事を数字で見る。

 僕が7の立場の時も、3の立場の時もある。

 7だったら3を探すし、3だったら7を捕まえれるよう頑張るし。

 ココロだとかシャカイだとか、明確なものがない偶像的な曖昧模糊な場所で呼吸をしなきゃいけない体だから、そういう数字ルールをショルダーにすると、だいぶラク。

 吹っ切れた。チガウ、気付いた、のかもしれない。

 要はボクは世間知らずだった。井の中の蛙を撫でて悦に浸るナニカだったのかも。

 楽しくない、面白くない、壁越しに壁に額をくっつけて、壁の向こう側に叫んでいる世界観。壁を作ったのはボクで、向こう側はボクのいない社会。

 キノウの僕を今日の僕が殺して、今日の僕は明日の僕に出会い殺される。

 たまに抵抗して今日のまま明日を生きるときもあるけれど、いつか穿たれる。

 心の中で日々殺し合いが開催されている。

 羅生門の下人もそうだったに違いない。

 病んでるフリ。

 墜ちるにヨウ。

 考えてるダケ。

 つまり掻っ捌いてみたらどうでもいい自分。

 物事を壁伝いに聞いてる人嫌いな僕をドアスコープでのぞいてる僕。

 人形買った。

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人生は縷々としている

 日ごろから生きることとかをツラツラと考えている性分な僕が、最近興味をひかれた文献を読んだ。

 仏教の中における「補特伽羅(ふとがら)」という考え方である。

 人間が「意識」として感じている「主体」と、脳神経の中の「情報」は区別できるものであるということ。これは「人間」という生き物が「心身」「意識」「感覚」「肉体」が組み合わさって初めて構築されているというもので、死を迎えるとそれらはすべてバラバラに分解されるということ。

 このことを、ほかの方が例えた話を引用すると、一軒の家も「柱」「壁」「屋根」などのパーツから作られているが、バラバラな状態だとそれは「家」と呼称するものではないということで、組み合わされて初めて「家」であるということ。

 よって、生命の死後の意識は更地で、そこにもいつか新しい家は建つ。

 補特伽羅はこの「更地」のことを示す。意識という次元での「絶対座標」という言い方もある。

 しかし一人の人間が一つの補特伽羅を持っているとは限らない。死後、そこに宿っていた補特伽羅が別の生き物に拡散して転生することもある。

 ゆえに、今自分自身が生命を感じてる「主体」の意識は前世や来世のものと共有されている。

 ではこの「補特伽羅」という考え方をどのように自分の中で消化し、活用すればいいのかというと、「すべての生命は死後あらゆる生命に転生する」という思想を、さながらダイイングメッセージのように来世に送るのだ。

 逆に、この釈迦が教える「補特伽羅」の思想そのものを、人間として転生した現世の自分に対する前世の自分から送られたメッセージだと考えてもいいのだろう。

 これまでに無数の死を経験し、無数の生を育んできた。

 記憶の持ち越しは不可能だから、人生を悔いのない、苦痛のない状態で幕を終えるのが人生の目的である。

 来世の自分が、補特伽羅が苦痛にならないよう、誠心誠意の優しさを込めて。

 来世への予習をすると考えてもいい。

 それの繰り返しで、よりよい自分、よりよい補特伽羅に完成させ続けるために、自分の中に「自分の意志」という絶対神を作る。

 以上が仏教における「補特伽羅」の考え方だった。

 久々に興味の惹かれた内容だったので、紹介してみた。

 僕は理不尽を嫌う。だから無意味に僕は人生という舞台に立たされたのかと考えると、耐えられない憤怒が襲う。だから、無意味ではなく、必要なものとして僕は「人間」という補特伽羅となって立っているのだと考えたい。

 では僕が立っている「舞台」、いわば世界はどう輪郭をなしているのだろう。

 インドの詩人タゴールと、アインシュタインが言っていた。

「人間が見えるから月が存在している」

「人間がいなくても月は存在する」

 世界という枠組みを、人間という意識の中だけで形作られたものとみるべきか、世界という枠組みの中に人間がいるものと考えるのか、というもの。

 人間が「月」と意識しているものは「月」だけれど、人間が「月」を「月」と意識しなくなればそれは「月」ではなくなる。

 物理法則的には「人間」がいなくても「月」は存在するけれど、主観的な人間の価値観からみれば「人間」が確認できないものは永遠に存在しない。

 なぜなら人間がいなければ「月」は「月」ではなく、ただの宇宙に浮かぶ石だからだ。つまりこの「世界」というものを「世界」として感じることができているのは「人間」の中にある意識だけだから、世界と人間の意識はイコールなのかもしれない。

 辛いとき、悲しい、苦しいとき。僕はそれを思い出して、苦痛に思っているものも、「苦痛」だと意識しているから存在しているのだ、と。だから、僕が意識しなければその「苦痛」は存在しないものになるから、少しだけ楽になるのだ。

 補特伽羅のとこでは生きる目的はこうであると紹介したけれど、その実僕は興味をひかれただけで、それで納得したわけではないのだ。

 フランスの哲学者、ルネ・デカルトの「我思う、ゆえに我あり」にも似ているのかもしれない。言いたいのは脳の中の概念、いわば意識世界と、意識世界が認識している現実世界はイコールではなく、脳が「ある」と感じているものはあくまで頭の中の概念で、その概念がそのまま現実に存在する概念とは限らない。これも、「世界」がいろいろな人間の中の概念が重なって構成されているということを、根っこに感じる。

 ようは、人間が「正しい」と思うからそれが正しい「真実」なものであるだけで、現実世界の「真理」が「真実」そのものではないということ。

 いろいろなことを考えて、模索して、生きる理由、意味を考えても結局目的論という発想が、人間の思考形式、論理形式の中のものだから、所詮人間という枠の中の考えでしかないから、答えなんてものは存在しない。まぁこれも、「しない」と思っているからしないだけで本当は「ある」のかもしれないけれどそう、そんなことまで考えだすと「キリ」がないのだ。堂々巡りの人間の意識という制限された場所で、どう生命を全うするか。「生きる」という事象をどう終わらせるかはもう、それこそ「自分次第」という言葉で完結してしまうのだ。

 生きようとすること。

 死なないようにすること。

 死ぬために生きること。

 僕は3つ目を選び続ける。

 やりたいことではなく、やらなければならないことを探したい。運が良ければ、やらなければならないことが、自分のやりたいことなのかもしれないから。

 死ぬ「年月日」を決めた。

 あとはそこまでの過程をどう持っていくか。

 そういう風に考えを変えてから、人生も悪くないと思った。

 未来を歩くことは難しい。未来へ転ぶことはできる。カフカはそういった。

 僕は転ぶことすら怖いから、シネマグラフのようにゆっくりゆっくりと、止まっているように歩く。

 そろそろ蕎麦が茹で上がる頃だ。

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光を忘れた

  水気のある雲を神様がすいて、地上に雨が降る。

  降った雨は蒸気になって三度と神様のお手元に戻ってくる。

  そんな風に僕の所にも吐いた言葉が戻ってくれればいいのにな。

  横を歩いていた筈の人の背中をみて歩いている。光を覚えたように迷いのない目の前の背中はどんどん前進していく。

  そんな姿に眩しくなった僕はいつのまにか光を忘れていた。

  いつも以上に肩に手を回す「戒め」が耳元で囁く。

  見返りを求めた偽善を、当たり前のように食事をして生を繋ごうとしている姿を、必然のように人と喋っている横顔を、真面目に働こうとしている眼差しを、醜い醜い醜いと何度も黒い言葉で埋めてくる。

  普通の人として生活するのが恥ずかしくてたまらない僕は、制限されていく合間に雨の音を聞いた。

  気付けば濡れた地面の上に立っていた。

  ぽつりぽつりと言葉が降ってくるけれど、傘もささずに僕は歩く。

  横目に見れば綺麗事が安売りされていた。

  戯言の看板に、詭弁の柵、謳われている家々は嘘で出来ている。

  通行人の顔は黒塗りで、微かな変化すら分からなかった。

  恐怖は過ぎ去って、歩いているうちに期待も脱いで、希望も捨てていて、けれど不思議と自棄に包まれることもなく、揺らがない死への願望に背中を炙られて、凹凸のあった僕の心も平面になっていく。

  誰かを励ます言葉は湯水のように出るけれど、自分を励ますときは冷たい水しか出てこない。

  凍えることにも苛立って、目を瞑る。

  瞼の裏には、変わろうとして変わって、けれどそれは変わった気がしていてその実は変わっていなかった変わらない自分の姿が再生されていた。

  そんな全てが自分だと言い聞かせて、眠りに落ちていく。

  殺伐とした明日がやってくる、けれど明日が来れなくなるのもそう遠くはない。

  そんなことを露知らずに我が物顔で入ってくる明日に、少しだけ勝った気がした。

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  知らないピアノの伴奏が聞こえてくる、題名は自分に酔いしれた男、だろうか。

  僕の心を殴って飛び出そうとする「衝動」は、けして人に渡せるものではないから、こうしてここに文章としてかじらせる。

  

せめて綺麗に

 やることをやったら、幕を引こう。

 望まれてなくても、止められても。

 摩擦の後がどうなっても、もういい。

 けれどここまで生きてきた負債は清算する。

 それが、僕のやることだ。

 いつやることが終わるかは僕の目利き次第だけれど。

 僕にとっては、これだけが完結させる唯一の方法だ。

 そう決めただろうからか。

 苦しかった胸が、少しだけ楽になれた。

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